できたことを、先に言って――雪の魚沼から教室へ、愛を込めて
はじめに
教え子のみなさん、そして愛する娘へ。七十三歳という年齢を迎え、これまでの人生を振り返る機会を得ました。昭和二十八年に新潟の魚沼で生まれてから今日に至るまで、たくさんの人に出会い、支えられて教師としての道を歩んできました。
教室で子どもたちと泣き笑いした日々や、母として悩みながら過ごした時間は、どれもかけがえのない私の宝物です。不器用で失敗ばかりだった私が、何を大切にして生きてきたのか。この本を通して、私の歩幅で紡いできた思い出と、ずっと胸に抱き続けてきた温かい思いを、大好きなあなたたちに届けられたら嬉しく思います。
第1章白い雪と囲炉裏のぬくもり――家族と過ごした日々
私が生まれたのは昭和二十八年、新潟県の魚沼にある農家でした。魚沼の冬は本当に厳しく、見渡す限りが白一色に染まります。雪が屋根まで届くほど降り積もることも珍しくなく、二階の窓から外へ出入りしていた光景は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出すことができます。
小学生のころは、寒さも忘れて兄たちと一緒に雪の壁を掘り、かまくらを作ったり、竹スキーで滑ったりして日が暮れるまで遊んでいました。手足がすっかり冷え切って家に戻ると、囲炉裏の灰のなかでじっくり焼いた、あつあつの干し芋やお芋が待っていました。炭がパチパチとはぜる煙のにおいと、お芋の甘くて香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がり、外の冷たい雪のにおいと混ざり合って、なんとも言えないあたたかい気持ちになったものです。冷えた手でほおばるあつあつのお芋の味や、秋に山で実るあけびの優しい甘さは、私の幼いころの忘れられないごちそうでした。
雪国ならではの失敗もありました。ある冬の日、軒下にぶら下がった大きなつららを見つけ、どうしても食べてみたくなって夢中でしゃぶっていたのです。すると、冷たさで舌がつららにぴたりとくっついて離れなくなってしまいました。痛くて痛くて大泣きしていると、母が慌ててお湯を持って駆けつけてくれ、無事に助けてもらいました。あのとき、母から「欲張りな子だねぇ」と呆れ顔で怒られたことは、今となっては家族の懐かしい笑い話です。
そして何より、野良仕事の合間に私の頭を撫でてくれた祖父の姿が心に残っています。農作業の手をふと止め、節くれだった温かい手で私の頭を優しく撫でながら、「本を読むのはええことだ」と背中を押してくれました。厳しい寒さの中でも、家族が薪や囲炉裏の火のようにいつも温かく包み込んでくれたこと。それが、私の心の根っこを育ててくれた原点だったのだと、年を重ねた今、深く感じています。
第2章開かれた世界――先生への憧れと旅立ち
私が教師という仕事に憧れを抱いたのは、小学校四年生のころでした。雪深い魚沼の村には本が少なく、外の世界を知る機会も限られていました。そんな中、担任をしてくださった若い女性の先生との出会いが、私の世界を大きく変えてくれたのです。
その先生はご自分の本を教室に持ってきては、「ふみえちゃん、これ面白いわよ」と一冊ずつ手渡して貸してくださいました。冬の間、深い雪に閉ざされてどこにも行けない日々でも、本を開きさえすれば、見たこともない遠い世界や新しい知識へと自由に旅立つことができました。ページをめくるたびに胸が躍り、雪国の小さな教室にいながら、心はどこまでも広がっていくようでした。その嬉しさと感動は幼い私にとって鮮烈で、「私もいつかあんなふうに、子どもの世界をぐんと広げてあげられる先生になりたい」と強く願うようになったのです。
祖父もまた、本が大好きな私の背中を優しく押し続けてくれました。野良仕事で泥にまみれた手で頭を撫でてくれた祖父の温もりと、本を惜しみなく貸してくださった担任の先生の笑顔。あの温かな眼差しがあったからこそ、私は夢を見失わずに歩んでこられたのだと思います。
そして昭和四十七年の春、十八歳になった私は、生まれ育った魚沼を離れる日を迎えました。向かった先は、横浜の教育大学でした。見渡す限りの雪景色に別れを告げ、降り立った都会には、桜が満開に咲き乱れていました。生まれて初めて見る満開の桜並木に圧倒され、親元を離れる心細さや不安も胸をよぎりましたが、それ以上に「憧れだった教師への道がここから始まるんだ」という高鳴る期待で胸がいっぱいになりました。雪の下でじっと春を待つ草木のように過ごした故郷での歳月を胸に、私は教員という夢に向かって力強い一歩を踏み出したのです。
第3章教室という場所――失敗を重ねて見つけた教師の道標
大学を卒業し、二十二歳で川崎の小学校に赴任した春のことは、生涯忘れることができません。情熱だけは人一倍ありましたが、現実は失敗の連続でした。初めて引率した遠足では、事前に下見をしたはずなのに、先頭に立った私が真っ先に山道で迷ってしまったのです。子どもたちから「先生、こっちじゃない?」と心配そうに声をかけられ、冷や汗を流しながらうろたえました。授業参観では緊張のあまり、黒板に「先生」と書くべきところを大きく「先性」と誤字を書いてしまい、後ろで見守る保護者の方々に笑われてしまったこともありました。
最初の年はクラスもうまくまとめることができず、至らなさに落ち込んでは、放課後誰もいなくなった教室で一人涙を流す日々でした。そんな冬のある日、隣のクラスのベテランの先生が私の肩を優しくたたき、こう言って励ましてくださいました。「ふみえさん、注意する前に、まずは子どもの名前を一日十回呼んでごらんなさい。そして、できたことを先に褒めるのよ」。
その言葉にハッとさせられました。それまで私は、やんちゃな男の子に「廊下を走らない!」と頭ごなしに怒ってばかりいたのです。教わった通り、怒るのをぐっとこらえ、その子が自分の席に腰を下ろした瞬間に「席に座れたね」と声をかけてみました。すると、いつも尖っていたその子の表情がふっと和らぎ、教室の空気が変わったのです。子どもを変えようとする前に、まず教師である自分の見方を変えなければならない。その大切な教育の原点に気づかされた瞬間でした。
以来、私は「できたことを先に言う」という信条を、教師人生の道標として胸に刻み続けました。子どもたちの至らない点を探すのではなく、今日一歩でも前に進めた小さな姿を見つけて言葉にする。この関わり方を愚直に重ねていく中で、教室は子どもたちにとっても私にとっても、安心していられる温かい居場所になっていきました。
第4章母として、教員として――手を取り合って乗り越えた日々
教師としての経験を重ねていた三十歳で私は結婚し、愛しい娘を授かりました。産休を経て現場へ復帰した三十代前半の時期は、私の人生の中で一番の踏ん張りどころだったと思います。教員としての責任を果たしたい気持ちと、母親として幼いわが子のそばにいてあげたい思いとの間で、心は常に揺れていました。
娘が熱を出した朝、胸が締め付けられるような後ろ髪を引かれる思いで保育園に預け、学校へと駆け出す日もありました。そんな私を黙って支えてくれたのが夫でした。夫は愚痴ひとつこぼさず、家事や育児を自然と分担し、私の仕事を支えてくれたのです。ある夕方、仕事を終えて保育園へ迎えに行き、家路をたどっていたときのことです。茜色に染まる夕焼け空を見上げながら歩いていると、娘が小さな小さな手で、私の指をぎゅっと握り返してくれました。その手の柔らかな温もりを感じたとき、張り詰めていた肩の力がすうっと抜け、涙がこぼれそうになりました。あの手の温かさは、今でも私の心の中の宝物です。
平成の初め、三十代半ばから後半にかけて特別支援学級の担任を受け持ったことも、教員人生の大きな転機となりました。秋の終わりの落ち葉が舞う夕暮れ時、校庭からはサッカー部の子どもたちの元気な掛け声やボールを蹴る音が遠くに響いていました。静まり返った教室で、それまで全く言葉が出なかった男の子が、まっすぐに私の目を見て、初めて「せんせい」と呼んでくれたのです。その小さな声が私の耳に届いた瞬間、胸がいっぱいになり、溢れ出る涙を止めることができませんでした。人と心が通い合う奇跡を、子どもたちから教えてもらった時間でした。
娘が高校受験を控えていた四十代半ばには、海外の日本人学校の教員募集に強く惹かれたこともありました。広い世界へ飛び出してみたいという思いはあったものの、当時は母親としての役割を優先し、応募を見送る決断をしました。人生をもう一度やり直せるなら一年だけでも挑戦したかったという思いは、今でも時折、懐かしく胸をかすめることがあります。
第5章七十三歳の今――これからも続く歩みと、あなたへの願い
五十八歳で迎えた退職の日、最後の卒業式は忘れられません。校庭の桜のつぼみがほころぶ下で、かつての教え子たちが我が子の手を引いて会いに来てくれました。立派に成長した教え子たちの笑顔を見たとき、教師を続けてきて本当によかったと心から報われた思いがしました。
退職後も立ち止まることなく、地域の読み聞かせや、外国籍のお子さんたちへの日本語教室の活動を始めました。言葉を少しずつ覚え、みるみる瞳を輝かせていく子どもたちの姿に触れるうち、教職を退いても子どもたちと関わり続け、力になっていきたいという新たな道がはっきりと見えてきたのです。
七十三歳になった今、私はこれまでの人生の棚卸しをしながら、残された大切な時間を何に注ぎたいのか、自分の心とじっくり対話しています。かつて娘の受験期に一度は諦めた海外の日本人学校への憧れは、今も心の片隅に残っています。今からでも、一年だけでも行けないかしらと問いかけながら、日本語支援の活動を広げつつ、海外へと繋がる小さな一歩を具体的に探してみたいと考えています。年齢を重ねたからといって立ち止まる必要はなく、人はいつからでも、どこへでも行けるはずだと信じているからです。
私がこれまでの歩みの中で守り続けてきたのは、「できたことを先に言う」という姿勢でした。教え子のみなさん、そして私の娘へ。焦ることは何もありません。あなたのそのままで十分に素晴らしいのですから、自分だけの歩幅を信じて、できたことを一つずつ重ねていってください。自信を持って一歩を踏み出すあなたたちの姿を、私はこれからもずっと応援しています。
写真思い出の写真
おわりに
教え子のみなさん、そして大切な娘へ。私の拙い回顧録を最後まで読んでくれてありがとう。みんなと過ごした日々、娘と手を繋いで見上げた夕焼けのすべてが、私の生きる力でした。
つまずいても迷っても大丈夫。あなたの歩幅で、できたことを数えながら歩んでいってください。あなたはそのままで、じゅうぶん素敵です。
語りAI物語(かわさき楽AIサポート)で、話した言葉からまとめました。
この本の内容と権利は語り手ご本人とご家族のものです。