図面の向こうに見えた空――機械と家族と歩んだ日々
この本ができるまでの会話(1話目の冒頭)
聞き手(AI)健一さん、今日はお話を聞かせていただきありがとうございます。 答えは短くて大丈夫です。話したくないことは「飛ばして」と言ってくださいね。 質問 1/6 健一さんが生まれた土地や、小さかったころの家のまわりの景色のことを教えてください。
健一さん昭和30年に静岡で生まれましてね、家のまわりは見渡すかぎり茶畑でしたよ。父が茶農家をやっていましたから、新茶の季節になると町中がいい匂いになるんです。
聞き手(AI)新茶の季節の町中の匂い、目に浮かぶようです。 お父さんのお茶の仕事を手伝ったり、何か声をかけられたりした思い出はありますか。
健一さん手伝いはさせられましたよ、忙しい時期は猫の手も借りたいですからね。父は無口な人でしたから、褒め言葉なんて滅多に言わなくて「筋がいいな」とボソッと一言くれたのが、妙に嬉しかったのを覚えてますよ。
聞き手(AI)お父さんの「筋がいいな」という一言、誇らしかったですね。 それは健一さんがおいくつのころのことでしたか。
健一さん小学校の高学年、たぶん5年生くらいでしたね。茶葉を運ぶリヤカーの車輪が軋んでいたのを直したときに、そう言われたんですよ。
聞き手(AI)リヤカーを直して褒められた場面、情景がよく伝わってきます。 質問 2/6 学校を出て、最初の仕事に就いたころのことを聞かせてください。
健一さん昭和53年、大学を出て工作機械のメーカーに入りましてね。神奈川の工場に配属されて、油の匂いにまみれながら図面を引く毎日でしたよ。
聞き手(AI)油の匂いにまみれて図面を引く毎日だったのですね。 その職場で、健一さんに大きな影響を与えた先輩や上司はいらっしゃいましたか。
健一さん班長だった山崎さんというベテランの職人さんですね。「機械は嘘をつかん、嘘をつくのは図面を描いた人間だ」とよく怒られましたよ。怖い人でしたが、本質を教わりましたね。
語り手はAIが演じた架空の人物です。聞き手は本番と同じAIです。
はじめに
ふと立ち止まって自分の歩みを振り返ってみると、いつも私の手には油の匂いと鉛筆の感触、そして家族の温もりがありました。大した器用さも持たない私が、技術者として、そして一人の夫として今日まで歩んでこられたのは、何よりも妻である節子の支えと、ものづくりが教えてくれた正直さがあったからにほかなりません。
この小さな記録は、これまでの不器用な歩みを振り返り、一番近くで見守ってくれた妻へ感謝を伝えるとともに、これからの人生を歩んでいく自分自身への道しるべとして書き留めたものです。茶畑を走っていた幼い日から、遠い異国の地での夜、そして今に至る記憶の断片を、静かに辿ってみたいと思います。
第1章ものづくりの芽生えと夢中になった日々
昭和三十年、私は静岡の茶農家に生まれました。家のまわりは見渡すかぎり茶畑が広がり、新茶の季節になると町中が爽やかな香りに包まれたものです。戦後の復興期から高度経済成長へと向かう当時の日本の農村では、家族総出で畑仕事に精を出すのが日々の当たり前の暮らしでした。農繁期は猫の手も借りたい忙しさで、私も子どもの頃からよく手伝いをさせられました。父は無口な人で滅多に褒めることはありませんでしたが、小学五年生の頃、茶葉を運ぶリヤカーのきしむ車輪を直したとき、ボソッと「筋がいいな」と言ってくれました。その一言が、誇らしくて妙に嬉しかったことを今でも覚えています。
茶畑のあぜ道を自転車で全速力で駆け抜けたり、小川でザリガニを釣ったりするのも好きでしたが、何より夢中になったのは機械いじりでした。当時は壊れた道具も捨てずに直して使うのが普通の時代です。壊れた農機具のモーターをもらってきては、納屋にこもって一人で分解して遊んでいました。あの頃から、機械に触れることの面白さにすっかり魅了されていたのだと思います。
やがて私は工業高校の機械科へ進みました。高校時代は無線部に入り、同じ機械科の男仲間四、五人と放課後の部室に集まってはアンテナを立て、ハンダ付けに明け暮れる毎日でした。遠くの国の電波を拾えたとか、真空管の調子がどうだとか、理屈っぽい議論ばかり交わしていました。部活動に特別熱心というわけではありませんでしたが、放課後になると秋葉原の部品屋のカタログばかり眺めていました。
鉱石ラジオやアンプの自作に夢中になり、自分で組み立てたラジオから雑音混じりに野球中継の声が小さく聞こえてきたときの感動は忘れられません。部屋で一人、思わずガッツポーズをしたものです。世間では若者たちの間でフォークソングが流行しており、街のあちこちから素朴なアコースティックギターの音色が聴こえてくる時代でした。私も流行りに乗って安物のギターを買い、吉田拓郎などを少し練習してみましたが、指が痛くなってすぐにやめてしまいました。やはり私にとって心を動かす相手は、楽器よりも配線や鉄の塊だったようです。
第2章油まみれの図面と現場で学んだ教え
昭和五十三年、大学を卒業した私は工作機械のメーカーに入社し、神奈川の工場に配属されました。日本が重化学工業を中心に世界へ誇るものづくり大国へと駆け上がっていた時代です。私は工場の独身寮に入りました。六畳一間に作り付けの机と押し入れがあるだけの殺風景な部屋で、隣の部屋の目覚ましの音がよく聞こえてくるような暮らしでした。昼間に現場で目にした工作機械の構造が頭から離れず、部屋に戻ってはノートにスケッチを描き直しながら、早く一人前の設計者になりたいと焦る気持ちを抱えていました。
現場では、油の匂いにまみれながら図面を引く毎日が続きました。班長だったベテラン職人の山崎さんからは、「機械は嘘をつかん、嘘をつくのは図面を描いた人間だ」と厳しく叱られました。線一本、公差の数字ひとつにもすべて責任があるのだと叩き込まれ、冷や汗を流しながら鉛筆を握る手が震えたものです。理屈を丁寧に教えてくれる山崎班長は、トラブルが起きると私を呼んで「なぜここが焼き付いたと思う?」と原因を自ら考えさせてくれました。夜中に工場の製造ラインを止めてしまったときも、二人で朝まで油まみれになって原因を突き止めました。明け方に缶コーヒーを渡しながら、「原因が分かれば機械は直る。人も同じだ」と笑ってくれた姿は、今も私の支えになっています。
旋盤の指導をしてくれた中村主任もまた、忘れられない職人でした。いつも油の匂いがする作業着を着て無口な中村さんは、新米の私が図面を持っていくと指で弾くようにして「紙の上じゃ削れねえぞ」と突き放しました。「図面を信じるな、削った鉄の熱を手のひらで感じろ」と怒鳴られ、当時は理屈に合わないと腹の中で反発したものです。しかし、機械の癖や刃物の摩耗は、数値や図面だけでは測れない現場の感覚があって初めて掴めるものだと、やがて思い知らされました。
入社して三年目くらいになった頃、現場での削りやすさを隅々まで考え抜いた図面を中村主任のもとへ持っていきました。中村さんは珍しく図面をじっと見つめ、「……これなら機械が泣かねえな」と小さく呟いてくれたのです。あのときの喜びは、技術者として生きていく大きな自信となりました。
第3章海の向こうの暮らしと家族の絆
二十八歳のとき、会社の同期の紹介で知り合った節子と結婚しました。私の理屈っぽい話を、昔から黙って笑って聞いてくれる穏やかな人です。結婚を決めるとき、大真面目にこれからの人生設計を語る私に対し、節子は「あなたといると退屈しなさそうね」と楽しそうに笑いました。からかわれたような気分になりつつも、この人と生きていくのだと心が決まった瞬間でした。
三十一歳のとき、東南アジアの新工場立ち上げに手を挙げました。多くの日本企業が海外進出を加速させていた時代でしたが、言葉も通じない異国の地へ、妻と三歳になったばかりの息子を連れて赴任するのは人生の大きな決断でした。現地では頻繁に停電が起こり、夜中に工場から呼び出されては、懐中電灯を口にくわえて汗だくになりながら機械を修理しました。言葉は通じなくても、現地の若い仲間たちと図面を指さし合い、朝までかかって機械を動かしたときには手を取り合って喜びを分かち合いました。
慣れない異国での生活のなか、社宅で迎える夕暮れも忘れられません。突然のスコールで町中が停電すると、ローソクを灯して食卓を囲みました。まだ幼い息子は暗がりを面白がってはしゃぎ、節子は手に入る空芯菜をニンニクで炒め、現地の硬いお米を用意してくれました。日本から持参した貴重な醤油を少し垂らしただけの食事が、何よりのご馳走でした。私が作業服を泥だらけにして深夜に帰宅したときも、節子は文句ひとつ言わずに温かいご飯を作って迎えてくれました。言葉の通じない環境でありながら、息子は現地の子どもたちと遊ぶうちに片言の言葉を覚え、逞しく親を出迎えてくれたものです。現地の同僚の結婚式に家族で出席した際、節子が「来てよかったね」と見せてくれた満面の笑みは、今でも私の胸に深く刻まれています。
帰国後は、神奈川の工場近くにある社宅の団地に移り住みました。昭和の終わりに建てられた四階建ての団地で、遠くには丹沢の山並みが見えました。東南アジアの喧騒から戻ったばかりの頃は、静かすぎて拍子抜けするほどでした。息子が小学校に上がった頃、団地の敷地で自転車の練習をさせました。私が後ろを支えていた手をそっと離すと、息子は転ぶことなくすーっと前へ走っていきました。見上げると、ベランダから節子が嬉しそうに手を振っていました。
第4章手のひらの正直さと次世代への継承
現役を退いた今、私は地元の公民館で子どもたちに向けた工作教室を手伝っています。デジタル技術や画面の中の遊びが主流となった現代だからこそ、自分の手を動かして物を作る面白さや、試行錯誤しながら形にしていく感覚を子どもたちに手渡したいと考えています。子どもが自分で作ったおもちゃが初めて思い通りに動いた瞬間、パッと目を丸くして、そのあと満面の笑みを浮かべる姿を見るのが何よりの楽しみです。その表情を見るたび、かつて納屋でモーターをバラしていた幼い頃の自分や、工場で初めて機械を動かした日の熱い気持ちが蘇り、胸が熱くなります。
私がこれまでの人生を通じて大切にしてきた信条は、「図面は言葉より正直だ」ということです。どんなに口先で繕っても、ごまかしや迷いは必ず形となって現れてしまいます。線一本、部品ひとつに真摯に向き合うこと。それは工作機械の設計だけでなく、人としての生き方そのものにも通じていたように思います。不器用で口下手な私がここまで歩んでこられたのは、嘘をつかないものづくりの教えと、それを信じて見守ってくれた周囲の存在があったからです。
これから先、節子と二人であの東南アジアの工場があった街をもう一度訪ねてみたいと思っています。かつて懐中電灯をくわえて走ったあの街も、今ではすっかり近代的な都市へと姿を変えたと耳にします。発展した街並みの中に当時の面影を探しながら、二人でゆっくり散歩を楽しみたいものです。停電の夜にローソクの明かりの下で語り合ったこと、息子の無邪気な笑い声、汗と油の記憶を振り返りながら、穏やかな時間を共に過ごせたらと願っています。
写真思い出の写真
おわりに
面と向かっては照れくさくて到底言えませんが、節子、ここまで文句も言わずに私の不器用な歩みについてきてくれて、本当にありがとう。あなたがいてくれたからこそ、どんな時も前を向いて図面を引き続けることができました。そしてこれからの自分へ。要領よく生きることはできなかったけれど、不器用なりによく粘り強く生きてきたと声をかけてやりたいです。これからも正直に、一日一日を大切に歩んでいきましょう。
語りAI物語(かわさき楽AIサポート)で、話した言葉からまとめました。
この本の内容と権利は語り手ご本人とご家族のものです。