大根を担いで、笑って生きてきた
この本ができるまでの会話(1話目の冒頭)
聞き手(AI)まさ子さん、今日はお話を聞かせていただき、ありがとうございます。 答えは短くて大丈夫ですし、話したくないことは「飛ばして」と言ってくださいね。 質問 1/6 まさ子さんが生まれた土地や、小さかったころの家のまわりの景色について聞かせていただけますか。
まさ子さんあたしは東京の下町生まれでさ、まわりは長屋ばっかりだったよ。 お父ちゃんが大工だったから、家の前にはいつも木くずが散らかってたねえ。
聞き手(AI)家の前にはいつも大工のお父さんの木くずが散らかっていたのですね。 それはまさ子さんがおいくつのころで、まわりの長屋にはどんな人たちが住んでいましたか。
まさ子さん物心ついた三歳か四歳くらいのころだねえ。 お隣は駄菓子屋のおばあちゃんで、向かいには紙芝居のおじさんが住んでて、いつも賑やかだったよ。
聞き手(AI)駄菓子屋のおばあちゃんや紙芝居のおじさんがいて、賑やかだったのですね。 紙芝居が来るときや駄菓子屋さんにいくとき、どんなふうに過ごしていたか覚えていますか。
まさ子さん拍子木の音がカンカン鳴ると、路地に子どもがワーッと集まってきてさ。 あたしは水飴を割り箸で練るのが楽しみで、ずっと口のまわりをベタベタにしてたよ。
聞き手(AI)水飴を割り箸で練って、口のまわりをベタベタにしていたのですね。 質問 2/6 少し大きくなって、女学校や高校を出たころの最初の仕事や進路について聞かせていただけますか。
まさ子さん中学を出てすぐに、近所の和菓子屋へお勤めに出たのよ。 お菓子の包み紙をきれいに折る練習ばっかりしてたねえ。
聞き手(AI)中学を出てすぐ、和菓子屋さんの包み紙を折る練習ばかりしていたのですね。 その和菓子屋さんは何というお店で、お店の人から言われて心に残っている言葉はありますか。
まさ子さん本郷にあった「鈴乃屋」って店だよ。 職人の親方に「女が練り切り触るんじゃない」って怒鳴られてさ、悔しくて台所で泣いたのを覚えてるよ。
語り手はAIが演じた架空の人物です。聞き手は本番と同じAIです。
はじめに
かわいい孫たちへ。
おばあちゃんがこれまでどんな風に生きてきたのか、少しだけ話しておきたくてこの本にまとめてもらいました。あたしが生きてきた時代は、今のように便利なものもなくて、毎日朝から晩まで体を動かして働くのが当たり前でした。大工の娘として下町で生まれ、和菓子屋へお勤めに出て、それから川崎の八百屋へ嫁いでからは、本当にあっという間の毎日だったよ。
決して特別な人生じゃないけれど、いつも周りの人に助けられ、家族みんなで力を合わせて乗り越えてきました。あたしが大切にしてきたことや、通り過ぎてきた懐かしい日々の景色が、これからのあんたたちの心に少しでも残ってくれたら嬉しいよ。お茶でも飲みながら、のんびり読んでおくれね。
第1章下町の長屋とさつまいもの記憶
あたしは東京の下町生まれで、まわりは長屋ばかりのところで育ちました。昭和の初めから戦前戦後にかけての下町は、隣近所の声が筒抜けで、路地全体が一つの家族のように助け合って暮らしていました。
お父ちゃんは大工でね、長屋のまわりでは「源さん」ってみんなに呼ばれていたよ。いつも鉋の削り屑のいい匂いがしていて、家の前には木くずが散らかっていました。普段は無口な人だったけれど、仕事が終わって夕方に飲む一杯のお酒が何よりの楽しみだったねぇ。頑固だけど、腕のいい大工だったからねぇ。
お母ちゃんはずっと家で内職ばかりしている静かな人でした。あたしが四歳くらいのころに千葉へ疎開したときも、文句ひとつ言わずに手を動かしていましたね。あのころは物資が不足し、子どもたちを安全な農村へと疎開させる家庭が多かった時代でした。あたしはまだ小さかったから、田んぼの蛙の声と、ばあちゃんがふかしてくれたさつまいもの甘さくらいしか覚えていないのよ。
下町に戻って物心がついた三歳か四歳くらいのころは、お隣が駄菓子屋のおばあちゃんで、向かいには紙芝居のおじさんが住んでいて、路地はいつも賑やかだったよ。拍子木の音がカンカン鳴ると、路地に子どもがワーッと集まってきてさ。あたしは水飴を割り箸で練るのが楽しみで、ずっと口のまわりをベタベタにしていたよ。
小学校に通っていたころは、終戦直後の混乱で教室や教科書も足りず、午前と午後に分かれて授業を行う二部授業の時代でした。学校でも教科書が足りなくて、隣の席の子と一冊を真ん中に置いて一緒に見ていたのを覚えています。「もっとそっち寄せてよ」なんて小突き合いながら必死で見ていましたね。二部授業だったから、学校がない時間はずーっと路地で遊んでいたよ。男の子たちはメンコやベーゴマに夢中だったけれど、あたしはお向かいのみっちゃんという子と、路地でゴム跳びやお手玉をしてよく遊んだよ。お互いの家を勝手に行ったり来たりして、いつも一緒に笑い転げていたね。
第2章十五の春、和菓子屋での奉公
中学を出てすぐだから、十五の春だったよ。あたしは親元を離れて、近所の本郷にあった「鈴乃屋」という和菓子屋さんへお勤めに出ることになりました。戦後復興の時期、中学を卒業したばかりの若い人たちが親元を離れ、住み込みで働くことは珍しくない時代でした。
親元を離れるのが寂しくて、最初のころは夜になると布団の中でよく泣いたもんさ。お店には厳しい職人の親方がいてね。ある日、作業場で親方に「女が練り切り触るんじゃない」ってものすごい声で怒鳴られてさ。悔しくて悔しくて、台所で一人で泣いたのを今でもよく覚えているよ。乗り越えるも何も、昔はそういう時代だったから諦めるしかなかったのよ。
だけど、ただ泣いてばかりいるあたしじゃなかったね。職人の技に触らせてもらえないなら、そのかわり、接客とお包みだけは誰にも負けないくらい上手になってやろうって心の中で意地を張ったの。それからは、お菓子の包み紙をきれいに素早く折る練習ばかりしていたよ。
そんなあたしの姿を、ちゃんと見ていてくれる人もいました。鈴乃屋のおかみさんは、いつも帳場にきりっと座っていて、仕事にはとても厳しい人だったよ。でもね、夜になると「まさ子、これお食べ」って、形の崩れたお饅頭をこっそり分けてくれたの。あの甘いお饅頭の味と、おかみさんのあたたかさは、辛かった奉公の暮らしの中で本当に大きな救いだったねぇ。
第3章八百屋への嫁入りと市場の朝
二十一のときに、親戚のおばさんの紹介でお見合いをして、川崎の八百屋の跡取りだった寅雄さんのところへ嫁ぎました。昭和三十年代の初め頃は、まだお見合いで結婚を決めるのが一般的で、商店街の個人商店が町の台所として一番活気に満ちていた時代でした。
寅雄さんは背が高くて無口な人だったよ。初めて二人で歩いたときに、いきなり「大根担ぐの手伝ってくれ」って言われてね。色気もへったくれもないねえって、思わず笑っちゃったよ。
嫁いでからは本当に忙しい毎日でした。毎朝四時に起きて寅雄さんを市場へ送り出して、あたしもすぐに店先を掃除してさ。義理のお父ちゃんがものすごく厳しい人だったから、最初のころは怒られないように毎日必死だったよ。
お店を手伝い始めたばかりのころ、大失敗をしたこともありました。お客さんにお釣りを千円多く渡しちゃったことがあったのよ。帳尻が合わなくて青くなって、夜になってから恥ずかしいのを我慢して、そのお客さんの家まで返しをもらいに行ったんです。そうしたら怒られるどころか、「わざわざ夜遅くに悪かったねえ、風邪引かないでおくれよ」って逆に気遣われちゃってさ。あったかい人だったから、余計に申し訳なくて涙が出そうでしたよ。
嫁いで二、三年目、あたしが二十三か四のころだねぇ。長男をおんぶしながら店に出ていました。年末の売り出しは本当に寒くて手はかじかむし、白菜やら大根やらが飛ぶように売れて、腰を下ろす暇もありませんでした。夜にはもう足が棒みたいになっちゃってね。そんなとき、寅雄さんが「まさ子、温かい茶あ飲め」って、湯呑みをすっと渡してくれたよ。口下手で口数の少ない人だったけれど、そういう優しい気遣いができる人だったんだよ。
第4章店先の子育てと多摩川の夕焼け
それから男二人と女一人の三人産んだから、もう毎日が戦争みたいだったよ。高度経済成長期の真っただ中で町には子どもたちの声が溢れ、あたしたち親も朝から晩まで休む間もなく働き詰めで育て上げた時代でした。
暮れになると店先で正月用の里芋や蓮根を売りながら、背中の子どものおんぶ紐を掛け直してばかりいたよ。長男の一男は父親似で無口、次男の二郎はお調子者でね。一番下の娘の由美が一番気が強くて、あたしの手伝いをよくしてくれたよ。朝早くから市場と店があるから、運動会の日もじっくり見てはいられなくて、店の合間を縫って走って見に行きました。たいしたお弁当も作れなかったけれど、校庭で子どもが手を振ってくれたときは本当に嬉しかったよ。
ある日、二郎が売り物のスイカを店先で落っことして割っちゃったことがあってさ。割れたスイカを三人で道端に座って夢中で食べたんだよ。寅雄さんに見つかって「売り物を食うな!」って怒鳴られたけれど、あのスイカは甘くて本当においしかったねぇ。
由美が小学校の二、三年生くらいになったころ、あたしが配達から帰ってくると、小さな手でぬか床をかき混ぜてくれていたこともあったよ。ちょうどエプロンが欲しくなるお年頃だったのね。「お母ちゃん、手がすっぱい匂いするよ」って笑うのが、たまらなく可愛かったよ。
八百屋は年中無休みたいなもんだったけれど、夏に一日だけ店を休んで、家族みんなで多摩川へ出かけたことがありました。おにぎりを持って、一男が十歳くらいで、末の由美はまだ幼稚園くらいでちょこちょこ歩いてね。子どもたちが川でちゃぷちゃぷ水遊びして、寅雄さんも嬉しそうにビールを飲んでさ。夕方になって、土手の草の上で子どもたちが並んでスイカにかぶりついていた姿が、今でも一番心に残っているよ。空が真っ赤に染まって、川風がすうっと吹いて、ああ、幸せだなぁって心から思ったよ。
第5章変わる町並みと、変わらない信条
昭和五十年代に入ると、近くに大きなスーパーができました。日本のあちこちに大型スーパーが建ち並び、昔ながらの商店街が大きな転換期を迎えていた時代でした。うちのお店もお客さんがごっそり減っちゃって、あたしも夫も頭を抱えましたよ。
そのとき夫が「店で待っててもダメだから、こっちから持って行こう」って言ったの。それで、あたしたちで配達を始めることにしたんです。自転車の荷台に大根やキャベツの段ボールを積んで、近所に新しくできた団地の階段を何度も上り下りしました。体がきついときもあったけれど、待ってくれている人がいると思うとペダルを踏み込めたね。
店先でのやり取りも、あたしの宝物でした。毎日夕方に一本だけ大根を買いに来る、お向かいのばあさんがいてね。「今日も10円まけてよ」って言うのがお決まりでさ。まけたりまけなかったり、あの掛け合いが本当に楽しかったねえ。常連さんの子どもの名前なんかも全部覚えていましたよ。
八百屋をやっていたときからずっと大事にしてきたのは、「お客さんの顔と名前を覚える」ことだけでした。相手のことを大事に思っていれば、自然と通じるものがあるからね。そして孫たちにはね、「ありがとうは大きな声で言いなさい」っていつも伝えているの。挨拶さえしっかりできりゃ、人は必ず助けてくれるからね。
第6章店を閉めたあと、日々のぬくもり
長い間続けてきた八百屋の店を閉めてからは、毎日の暮らしがずいぶんと静かになりました。昭和から平成へと時代が移り変わり、地域には公民館などを中心にした新しい趣味や交流の場が広がっていきました。
店を閉めてから、近所の公民館で開かれている俳句の会に通い始めたのよ。お店をやっていたころには考えられないような、穏やかな時間が流れるようになりました。それに、毎朝かき混ぜるぬか漬けの手入れが一番の楽しみでしたね。台所でぬか床に手を入れながら、ふと浮かんだ句がありました。
「ぬか床や 母の匂ひの 茄子を漬く」
この句を会で詠んだら、先生にとても褒められて本当に嬉しかったよ。昔、疎開先で静かに内職をしていたお母ちゃんの手や、由美が小さな手でぬか床を混ぜてくれた日のことが、自然と思い出されたんだねぇ。
句会の帰りには、お茶飲み友達と近所の喫茶店に寄って、あんみつを食べるのが何よりの楽しみでした。甘いものを口に運びながら他愛のないおしゃべりをして笑い合う時間は、忙しく駆け抜けてきた人生の、あたたかいご褒美のようでしたよ。
写真思い出の写真
おわりに
孫たちへ。
ここまで読んでくれてありがとうね。おばあちゃんの話はどうだったかい。振り返ってみれば、失敗して泣いたことも、大変なこともたくさんあったけれど、いつも誰かの優しさに支えられて生きてきました。
どんなときも「ありがとう」の言葉と笑顔を忘れずにいれば、きっと周りの人があんたたちを助けてくれます。これから先、楽しいことも悩むこともあるだろうけれど、前を向いて元気に歩んでいっておくれ。ずっとずっと、応援しているよ。
語りAI物語(かわさき楽AIサポート)で、話した言葉からまとめました。
この本の内容と権利は語り手ご本人とご家族のものです。