多摩川の風と、あったかい食卓〜みっちゃんからあなたへ〜
はじめに
大好きなあなたへ。
ふと気がつけば、私も七十六歳になりました。日々の暮らしのなかで、ふと昔のことを思い出すことが増えたのよ。川崎の登戸で多摩川の土手を駆け回っていた子どものころのこと、十五歳で働きに出て必死に覚えた算盤のこと、そしてあなたたちのおじいちゃんと出会って家族を作ってきたこと。
昔の私はね、失敗ばかりでちっとも完璧なおばあちゃんじゃなかったのよ。それでも毎日あったかいごはんを囲んで、笑ったり泣いたりしながら、今日まで歩んできました。
これからあなたが自分の道を歩んでいくとき、もし道に迷ったり、少し立ち止まりたくなったりしたら、このお話を思い出してほしいの。私の胸のなかにある大切な思い出を、手紙を書くように一冊にまとめました。どうぞ、ゆっくり読んでみてね。
第1章土手の風と、夕暮れのお豆腐屋さん
私はね、昭和二十五年に川崎の登戸というところで生まれたのよ。あのころの多摩川はね、今よりもずっと身近で、私の遊び場のすべてだったの。夏になると、むせかえるような草いきれにまみれて夢中で虫取りをして、冬には冷たい北風のなかで高く高く凧あげをしたわ。キラキラと太陽の光を跳ね返す川面を眺めながら、日が暮れるまで一日中あそこで遊んでいたのよ。
小学校四年生くらいの冬のことは、今でも昨日のことのように覚えているわ。お兄ちゃんと妹と三人で土手に凧あげに行ったのね。お兄ちゃんが作った自慢の立派な凧だったんだけど、急にビューッと強い風にあおられちゃってね。お兄ちゃん、凧の糸を放すまいと踏ん張ったものの、そのままズルズルと泥だらけになって土手を滑り落ちちゃったのよ。やっと止まったお兄ちゃんの顔を見たら、鼻の下まで真っ黒な泥がついていてね。妹と顔を見合わせて、お腹が痛くて息ができなくなるくらい笑い転げたわ。土手すべりやかくれんぼ、ゴム跳びをして、着物が泥だらけになってもへっちゃらだったの。
五、六年生になると、近所のトモちゃんとゴム段やお手玉に夢中になったわ。遊ぶ場所は決まって、近所のお豆腐屋さんの店先。大豆をコトコト煮る甘くて香ばしい湯気が立ちのぼっていて、そのいい匂いに包まれながら遊ぶのが大好きだったのよ。夕方になると、お豆腐屋のおかみさんがね、「みっちゃん、これお食べ」って、揚げたての油揚げの端っこをくれたの。お醤油をちょんと垂らしてもらって、土手の上に座って頬張ると、外はカリッとして中はふわふわで、たまらなく美味しかったわ。土手の下を走る南武線のガタゴトっていう電車の音、夏ならジャワジャワと鳴く蝉の声。遠くからお豆腐屋さんの「パァ〜プー」っていうラッパの音が響いて、お母さんが「みっちゃん、ごはんよ!」って呼ぶ声が聞こえると、慌てて夕焼けのなかを走って家に帰ったものよ。
でもね、そんな懐かしい子ども時代にも、一つだけ大の苦手なものがあったの。それが小学校の給食で出た、あの独特な匂いの脱脂粉乳よ。鼻をつまんでもどうしても喉を通らなくてね。小学校三年生のとき、どうしても飲めないものだから、こっそり机の引き出しの奥に隠しておいたの。そうしたら何日も忘れてしまって、カビだらけにしちゃったのよ。当然、先生に見つかってね。放課後まで教室の後ろにみっちり立たされて、こっぴどく怒られちゃったわ。おまけに母にもばれてしまって、その日の夕飯のときに思いっきり頭にゲンコツを落とされたの。痛くて泣いたけれど、今となっては家族みんなの笑い話なのよね。
第2章十五歳の算盤と、洋裁本にこぼれた母の涙
十代のころの私はね、実は洋裁学校へ行って、服を縫う勉強がしたくてたまらなかったの。自分で布を選んで、カタカタとミシンを踏んで、素敵な服を仕立てる人に憧れていたのよ。でもね、うちは父が国鉄の保線区で働いていて、母も家で内職をしていて、決して裕福ではなかったの。弟や妹たちのこともあったし、家計のことを考えると、どうしても「洋裁学校に行きたい」とは言い出せなかったわ。胸の奥にその憧れをそっとしまい込んで、あきらめるしかなかったの。
だから私は中学を出てすぐ、十五歳で登戸の駅前にあった衣料品店へ働きに出たのよ。少しでも早く働いて、家にお金を入れて両親を助けたかったのね。お店に入ってまず言われたのが、「みっちゃん、商売は計算が命だからね」という言葉だったわ。そこから私の算盤の特訓が始まったの。お店のおじさんに教えてもらいながら、パチパチパチパチと指を動かしてね。必死になって半年で算盤をマスターしたわ。あの半年間の集中力は、私の人生の原点になっていると思うのよ。
でもね、慣れないうちは失敗もたくさんあったわ。十六歳くらいのころだったかしら。登戸の駅前だから、夕方のお勤め帰りのお客さんで店内がごった返すのね。次から次へとレジにお客さんが並んで、先輩から「みっちゃん、算盤もっと早く弾いて!」って急かされてね。私、焦ってしまって指に力が入りすぎちゃったの。そうしたら勢い余って、算盤の玉がパーンと宙に飛んでいって、お会計を待っていたお客さんの買い物籠のなかにスポンと入っちゃったのよ。一瞬しんとなって、それからお客さんも先輩も大笑い。私はもう、恥ずかしくて顔から火が出るくらい真っ赤になって平謝りしたわ。
そんな失敗をしながらも一生懸命働いて、昭和四十年、忘れもしない春の日に初めてのお給料をいただいたの。嬉しくて、誇らしくて、封筒を握りしめて駅前の本屋さんへ走ったわ。そこでずっと欲しかった洋裁の型紙の本を一冊だけ買ったの。自分のために使ったのは、その本一冊のお金だけ。残りはそのまま全部、登戸の家に持って帰ったわ。居間にいた母の手のひらに、初任給の袋をポンと乗せたのよ。「お母ちゃん、これ、初給料だよ」って。そうしたら母がね、封筒を握りしめたまま、ポロポロと涙をこぼして泣いたのよ。娘に苦労をかけて申し訳ないという気持ちと、誇らしい気持ちが混ざっていたんでしょうね。母のあの涙を見たとき、学校には行けなかったけれど、一生懸命働いて本当によかったって心から思ったわ。
第3章しょっぱい卵焼きと、団地で紡いだ家族の日々
二十三歳になったとき、お見合いをして結婚することになったのよ。お相手が、あなたのおじいちゃんね。結婚したての昭和四十八年の朝、私は目を丸くしちゃったの。夫の実家ではね、朝ごはんに温かいお味噌汁を飲むんじゃなくて、熱いお茶を白ご飯にぶっかけて食べる習慣だったのよ。私の実家ではそんなことしたことがなかったから、本当にびっくりしてしまって。おじいちゃんはとても寡黙な人だったけれど、何も言わずに私が作ったお味噌汁を静かに飲んでくれたの。最初のころは、毎朝お茶碗を前にして二人でモジモジしちゃってね。なんだか気恥ずかしくて、顔を見合わせて笑ってしまったのを覚えているわ。
お嫁に来たばかりのころ、新しい生活に緊張して心細かった私を救ってくれたのは、お姑さんだったのよ。ある日、お姑さんが手作りのきな粉のおはぎを作ってくれたの。お台所から甘くて香ばしい匂いが漂ってきてね。「みっちゃん、おあがり」って差し出されたおはぎを一口食べたら、ふんわり甘くて温かくて、胸のつかえがすーっと溶けていくようだったわ。優しく迎えてくれたその味が忘れられなくて、それ以来、今でもお彼岸になると、私は同じようにきな粉のおはぎを作るのよ。
昭和四十九年には、溝の口の団地へ引っ越したわ。その引っ越しの当日に大事件が起きたの。親が持たせてくれた大事な嫁入り道具の鏡台を運んでいるときに、手を滑らせて鏡をパリンと割っちゃったのよ。目の前が真っ暗になって、私は青ざめて立ちすくんでしまったわ。でもね、口数の少ない夫が駆け寄ってきて、真っ先に「怪我はないか」って私の手を心配そうに見てくれたの。怒りもせず、私の体ばかり気遣ってくれたその優しさに救われたわ。今ではすっかり笑い話だけどね。
息子が小学校に入った昭和五十五年ころは、団地の広場が私たちの楽しい遊び場だったわ。近所の子どもたちと缶蹴りやゴム跳びをするときは、私もエプロン姿のまま本気で遊んだのよ。植え込みのなかに息をひそめて本気で隠れていたら、通りかかった近所のお母さんたちに「みっちゃんが一番楽しそうね!」って大笑いされたこともあったわね。
忘れられない失敗といえば、三十三歳のときの息子の運動会よ。前の晩から張り切ってお弁当の準備をして、大好物の卵焼きを焼いたの。校庭でみんなで重箱を広げて、「さあ食べよう」って卵焼きを口に入れた瞬間、みんなの顔が一変したのよ。「しょっぱい!」って大騒ぎ。私、慌てて砂糖と塩を間違えて入れちゃっていたのね。みんなで変な顔をしながら大笑いして、お茶ばかりゴクゴク飲んだわ。完璧じゃなくても、家族みんなで囲む食卓はいつも笑顔でいっぱいだったのよ。
第4章給食室の笑顔と、大きな寸胴鍋の思い出
子育てが少し落ち着いた四十代のとき、私は思い切って小学校の給食調理員のパートを始めることにしたのよ。子どものころは脱脂粉乳が苦手で、給食の時間を恐れていたあの私が、まさか給食を作る側になるなんて、人生って本当に不思議なものよね。
給食室の仕事はね、想像以上に重労働だったわ。何百人分ものお野菜を洗って切って、背丈ほどもある大きな寸胴鍋でスープやおかずを煮込むの。腕も腰もパンパンになる毎日だったけれど、お昼休みに教室から聞こえてくる子どもたちの「おいしい!」っていう元気な声を聞くと、疲れなんてどこかへ吹き飛んでしまったわ。あの笑顔と歓声が嬉しくて、気がつけば二十年も勤め上げていたのよ。
仕事の合間の休憩時間も、宝物のようなひとときだったわ。汗を流して大きな寸胴鍋を洗い終えた後、休憩室に集まってね。みんなが家から持ち寄ったお漬物をつまみながら、お茶を飲むの。「昨日の夜、うちの旦那が靴下を脱ぎっぱなしにして腹が立ってさ」なんて愚痴や、子どもの反抗期の悩みなんかをみんなで言い合ってね。「わかるわ〜!」って大笑いして共感し合うの。そうやって笑い飛ばすと、胸のなかのモヤモヤがすっきり晴れて、「よし、午後も頑張ろう」って元気が湧いてきたものよ。
給食センターで覚えた料理は、団地の我が家でもよく作ったわ。平成の初めころ、覚えたての春雨サラダを夕飯に出したことがあるのよ。お酢とごま油のさっぱりした香りが、団地の部屋いっぱいにふわーっと広がってね。食卓に出したら、子どもたちもお父さんも「これはさっぱりしてうまい!」ってお箸が止まらなくなっちゃって。大きめのボウルにてんこ盛りに作ったのに、あっという間に空っぽになったのよ。家族が美味しい顔をして食べてくれる姿を見るのが、私にとって何よりの幸せだったわ。
給食の仕事を辞めてから、十年前におじいちゃんを見送りました。寡黙だったけれど、いつも家族を温かく見守ってくれた優しい人だったわ。お茶ぶっかけご飯を笑い合った新婚の日から、鏡を割って心配してくれた日、しょっぱい卵焼きに大笑いした日。夫と過ごした日々の温もりは、今でも私の胸のなかにしっかりと残っているのよ。
第5章ミシンの音と、これからあなたに伝えたいこと
七十六歳になった今、私にはひそかな夢があるのよ。それはね、若いころにあきらめてしまった洋裁を、もう一度少し習ってみることなの。今でもミシンのカタカタという音を聞くと、胸がときめくのよ。一番下の孫の女の子に、私の手作りの可愛いワンピースを縫って着せてあげるのが今の目標なの。何歳になっても、やりたかったことに胸を躍らせるのって、とても素敵なことだと思わない?
そしてもう一つの夢は、春になったら孫のみんなを連れて、多摩川の土手でお花見をすることよ。私が泥だらけになって凧あげをして、揚げたての油揚げを食べたあの登戸の土手に、みんなでレジャーシートを広げたいの。そこにはね、お姑さんから教えてもらったきな粉のおはぎを、重箱いっぱいに詰めて持っていくわ。川の風に吹かれながら、みんなで甘いおはぎを頬張って、他愛もないおしゃべりをして笑い合えたら、それ以上に幸せなことはないわね。
三人の孫たちに、おばあちゃんからどうしても伝えておきたい大切な教えがあるの。それはね、「困ったときは、ひとりで抱え込まないで人に頼っていいんだよ」ということ。生きているとね、自分の力だけではどうにもならないことや、悲しくて立ち上がれないことが必ずあるわ。そんなとき、我慢して自分一人で抱え込んでしまっては駄目よ。誰かに「助けて」って言っていいの。人に頼ることは、決して恥ずかしいことでも弱いことでもないんだからね。
そしてもう一つ、私が人生でずっと大事にしてきたのは、「ごはんは一緒に食べる」ということよ。失敗して泣いた日も、喧嘩をした日も、みんなでひとつの食卓を囲んで、あったかいごはんを食べれば不思議と力が出るものなの。顔を合わせて温かいものを一緒に食べていれば、心がつながって、どんな困難だって乗り越えていける。だからね、もし何かに迷ったり苦しくなったりしたら、いつでも私のところにごはんを食べにおいで。おばあちゃんが、とびきり美味しいものを作って待っているからね。
写真思い出の写真
おわりに
最後まで読んでくれてありがとうね。泥だらけになって笑っていたあの日から、あっという間に月日が流れました。私の歩んできた道が、あなたのこれからの日々に少しでも優しい光を灯せたら嬉しいです。あなたがあなたらしく、笑顔で前を向いて歩いていけますように。いつでもずっと、あなたのことを応援しているわね。
語りAI物語(かわさき楽AIサポート)で、話した言葉からまとめました。
この本の内容と権利は語り手ご本人とご家族のものです。