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これは見本です。人物も出来事もすべて架空で、話した内容から本がこう仕上がる、という例です。
語りAI物語

鉄を削り、背中を追って

茂さん

息子と、工場の若い人たちへ

2026-10-02

はじめに

川崎の小さな町工場で、鉄の匂いと旋盤の音に囲まれて生きてきました。中学を出てすぐに親父の背中を追いかけ始め、気がつけば半世紀以上の月日が流れていました。

この小さな本は、息子の代へ工場を託し、現場で汗を流す若い人たちに向けて書き残す私のささやかな歩みです。思い返せば、決して器用な職人人生ではありませんでした。数えきれないほどの失敗を重ね、世の中の波に揉まれ、悔しい思いもたくさんしてきました。

それでも、逃げずに鉄と向き合ってきたことだけが私の誇りです。これから同じようにものづくりに励む皆さんが、迷ったり壁にぶつかったりしたとき、何か一つでも拾える言葉があれば幸いです。

第1章川崎の煙突と油の匂い

昭和二十年代から三十年代にかけての川崎は、戦後の復興から高度経済成長へと向かう活気に満ちていました。町にはあちこちに煙突が立ち並び、日本全体が豊かさを求めて猛烈な勢いで働き、街全体が工場の煙と熱気に包まれていた時代です。

私が生まれ育った幸区の町も、見渡す限り煙突とバラックが並ぶ工場町でした。朝から晩まで、どこかの工場からプレス機がガシャンガシャンと打ち付ける重い音や、旋盤が鉄を削る甲高い音が絶え間なく響いていました。私の最も古い記憶といえば、親父の小さな工場から漂ってくる油の匂いと、多摩川の土手から見上げた真っ黒な煙です。子どもの目にも、昼間から空が薄暗く煙っているのがはっきりと分かりました。

けれど、そんな煤けた町でも、子どもたちにとっては最高の遊び場でした。多摩川の土手へ駆け上がると、立ち込める煙の向こうにようやく広い空が見えました。十歳かそこらの小学生の頃は、近所の仲間と毎日のように土手へ集まり、暗くなるまで三角ベースの野球に夢中になってボールを追いかけていました。泥だらけになって川風を浴びながら白球を追った時間は、今でも鮮やかに思い出せます。

当時の何よりの楽しみは食べることでした。工場の裏手には小さな駄菓子屋があり、学校が終わると十円玉を握りしめてよく買い食いに行ったものです。そこで食べた揚げパンの味は格別で、今でもあれ以上にうまい菓子はないと思うほどです。紙芝居屋がやってくると、駄菓子屋で買ったソースせんべいを大事にかじりながら、夢中になって話に聞き入っていました。

たまに仕事帰りの親父が近所の市場で買ってきてくれる揚げたてのコロッケも、わが家にとっては贅沢なごちそうでした。紙袋から染み出す油の温かさと、親父の大きな手から漂う切削油の匂いは、子どもの頃の記憶と切っても切り離せないものとして、今も私の胸に深く刻まれています。

第2章朝まで回した旋盤と親父の「よし」

昭和三十年代後半の日本は、東京オリンピックを控えて社会全体が建設と製造の活気に沸き返り、中学を卒業した多くの若者たちが「金の卵」と呼ばれて産業の現場へ飛び込んでいった時代です。

私が中学を卒業したのは昭和三十七年のことでした。進学など考えもせず、親父の工場に入ったのは、自分で決めたというよりごく当たり前の流れでした。物心ついたときから油と鉄粉にまみれる親父の背中を見て育ちましたから、自分も同じように鉄を削るものだと疑いもしませんでした。

しかし、仕事は見て覚えるものという時代です。親父は手取り足取り教えてくれるような人ではなく、口数も極端に少ない職人でした。毎日のように親父の無言の背中を見つめ、見よう見まねで工具を握る日々が続きました。

大きな転機が訪れたのは、十七歳のときでした。初めて親父から自動車のシャフトを削る仕事を任されたのです。嬉しさと緊張で胸を躍らせながら旋盤に向かったのですが、力を入れすぎたのか、削りすぎて寸法をコンマ二ミリも狂わせてしまいました。製品としては全く使い物にならない完全な失敗でした。

「何やってんだ!」と、親父にものすごい勢いで怒鳴られました。普段は無口な親父の怒声が工場中に響き渡り、私は悔しさと情けなさで体が震えました。親父が去った後、工場の隅で削り損ねた鉄くずの山を前にして、私は一人立ち尽くしました。

このままでは終われないと、私は工場の明かりをつけたまま、一人で朝まで旋盤を回し続けました。冷え込む夜の工場で、鉄の粉を浴びながら何度も何度も刃物を当て直しました。朝方になり、すがる思いでマイクロメーターを当てると、寸法がピタリと百分の二ミリの中に収まりました。

朝、工場に入ってきた親父は、何も言わずにその部品を手に取り、ノギスを当てました。緊迫した沈黙のあと、親父はボソリと「よし」とだけ言いました。その一言を聞いた瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げ、「俺は一生この仕事で飯を食っていくんだ」と腹が決まりました。

二十代になり大手の下請けの仕事を始めた頃、品質管理の検査部長にノギス一本で「茂、これ百分の三逃げてるぞ」と一発で見抜かれたこともありました。化け物のような職人の目に恐ろしさを感じると同時に、誤魔化しは一切通用しないという現実を骨の髄まで叩き込まれました。

第3章屋台を引いた夜と工場の暖簾

昭和四十八年、第四次中東戦争をきっかけにオイルショックが起き、日本中がトイレットペーパーの買い占めなどで大混乱に陥り、高度経済成長は急ブレーキを踏まされることになりました。

当時二十六歳だった私にとっても、あのオイルショックはまさに青天の霹靂でした。それまで途切れることなく舞い込んでいた大手からの注文が、ある日を境にパタッと半分に減ってしまったのです。町工場のあちこちから機械の音が消え、うちの工場も昼過ぎには仕事がなくなってしまうような有様でした。

工場の維持と日々の生活を支えるため、私は夜になると親戚がやっていたラーメンの屋台を手伝うことにしました。夜風が身に染みる路上で屋台を引き、丼を洗い、客にラーメンを運んで小銭を稼ぐ日々でした。昼間は静まり返った工場でわずかな仕事をこなし、夜は屋台に立つという過酷な生活の中で、心は折れそうになりました。

しかし、そんな生活を続けていたからこそ、はっきりと見えたものがありました。昼間にわずかでも旋盤を回し、刃物が鉄を削り取っていく音を聞いているとき、自分の心が一番落ち着き、生きている実感を覚えるのです。屋台を引きながら、「俺にはやっぱり鉄を削る道しかない。この仕事にしがみついて生きていくんだ」と、職人としての覚悟がより一層固まりました。

昭和五十年代の半ば、私は二十年近く背中を追い続けてきた親父から正式に工場を継ぐことになりました。親父は相変わらず無口でしたが、その背中は最後まで私の目標でした。

工場を継いだ三十代の頃には、冷や汗をかくような失敗もありました。元請けの社長の苗字をずっと「山田さん」だと思い込み、半年間もそう呼び続けていたのです。ある納品の際、向こうの専務から小声で「茂さん、うちの社長は山下だよ」と教えられたときは、顔から火が出るほど恥ずかしく、耳まで真っ赤になりました。

また、同じ頃に出入りしていた金型屋の爺さんのことは今でも忘れられません。その爺さんはマイクロメーターも使わず、削り上がった鉄の表面を指先でそっと撫でただけで、「おい、これ百分のイチ狂ってるぞ」と言い当てたのです。実際に計り直すと本当に狂っていました。長年の修練で研ぎ澄まされた人間の手の感覚にはどうしても敵わないと、職人の世界の奥深さに心底脱帽しました。

第4章引き出しの図面と、五十一歳の挑戦

平成に入るとバブル経済が崩壊し、日本全体が「失われた十年」と呼ばれる長い不況に突入しました。製造業も激しい価格競争とコスト削減の荒波に晒され、下請け町工場には容赦のない合理化が求められた時代です。

四十代になった私は、下請け仕事の波に翻弄され続ける日々に危機感を抱いていました。いつか自社のオリジナルの製品を持ちたいという思いが日に日に強くなり、工場の刻印を入れたオリジナルのレンチや治具を作ろうと、夜遅くまで工場の机で自ら図面を引きました。

しかし、いざそれを形にしようとすると、設備投資や資金繰りの不安が頭をもたげ、どうしても踏み出すことができませんでした。結局、その図面は引き出しの奥に眠ったまま、製品化を諦めることになりました。今になって振り返れば、小さな規模でもいいから思い切って世に出してみればよかったという後悔が残っています。自分の力で自社工具を世に問うてみたかったという悔しさは、今でも心のどこかに燻っています。

その後、不況の風はいよいよ厳しさを増しました。平成十年頃、五十一歳を迎えていた私は、生き残りをかけた最大の岐路に立たされていました。仕事の減少に伴い、長年一緒にやってきた従業員を断腸の思いで二人だけに減らさざるを得なくなったのです。大手から仕事を取り続けるためには、手作業の汎用旋盤だけでなく、数値を入力して自動で動かすNC旋盤を導入することが絶対の条件でした。

「この年になって、いまさらコンピューターなんて扱えるのか」と、最初は頭を抱えました。長年、手のひらの振動や鉄の削れる音を頼りに生きてきた職人にとって、画面の数値で鉄を削るなど想像もつかない世界でした。しかし、工場を潰すわけにはいきません。私は毎晩のように講習会へ通い、機械を動かすためのGコードと呼ばれるプログラミング言語を、必死になって頭に叩き込みました。

手で削ってきた長年の感覚を、どのように数値へと置き換えるか。機械とにらめっこを続けながら、納得のいく精度が出るまでに半年以上かかりました。五十を過ぎてからのこの必死の挑戦こそが、職人人生における一番の転機であり、うちの工場を今日まで生き残らせる力となったのです。

第5章寸法は嘘をつかない

現在のものづくりは、かつて私が修業した頃とは比べものにならないほど高度化し、数値制御や自動化が進んでいます。日本の産業全体が効率と精度を極限まで追求する時代になり、町工場の現場の風景も大きく様変わりしました。

しかし、どれほど時代が変わり機械が進化しても、絶対に変わらない職人の根本があります。それが、私が若い頃から叩き込まれ、自分自身の手で確かめ続けてきた「寸法は嘘をつかない」という真理です。

旋盤に向かうとき、気の緩みや迷い、確認の怠慢は、すべて加工された鉄の寸法にそのまま表れます。人間は自分に都合のいい言い訳を口にできますが、削り出された寸法だけは絶対に嘘をつきません。百分の数ミリの狂いは、職人が現場でどのような心構えで鉄と向き合っていたかを、何よりも雄弁に物語っています。

だからこそ、私は工場の若い人たちや息子に、いつも口を酸っぱくして伝えていることがあります。「失敗した部品は、絶対に捨てるな。机の上に置いておけ」ということです。

削り損ねた部品や寸法を狂わせた鉄くずは、誰にとっても見たくない恥ずかしい失敗の証拠です。ゴミ箱に放り込んで見えないようにしてしまえば、その場では気が楽になるかもしれません。しかし、自分のしくじりから目を背けてしまっては、職人としての腕は絶対に上がりません。

机の上に置かれた出来損ないの部品を毎日毎日眺め、なぜあの時手元が狂ったのか、なぜ刃物の当て方を間違えたのかを自問自答するのです。自分の失敗をじっと見つめ続けることでしか、指先の狂いを正し、手の感覚を鍛え直すことはできません。恥ずかしいものから逃げずに受け止められるようになったとき、人は初めて一人前の職人へと近づくことができます。

鉄は正直です。こちらが真心を込めて向き合えば、必ず応えてくれます。道具を慈しみ、図面の一線一線を信じ、失敗を糧にして前へ進む。その泥臭い積み重ねこそが、町工場で働く私たちの誇りであり、未来を切り拓く力になると信じています。

写真思い出の写真

工場の音と煙に囲まれた川崎の町(昭和30年代) ※イメージ(AI生成・架空)
親父の工場で初めて任された旋盤(昭和39年) ※イメージ(AI生成・架空)
息子に継いだ工場で、若い人に教える(いま) ※イメージ(AI生成・架空)

おわりに

息子よ、そして工場の若いみんなへ。鉄の粉にまみれ、思い通りにいかない日々もあるだろう。だが、寸法は絶対に嘘をつかない。失敗した部品から目を背けず、誇りを持って手元の鉄に向き合ってくれ。私の背中を追い越して、この工場をさらに前へ進めていってくれることを心から願っている。

語り手 茂さん
語りAI物語(かわさき楽AIサポート)で、話した言葉からまとめました。
この本の内容と権利は語り手ご本人とご家族のものです。